河井継之助と河井継之助記念館
長岡城跡の碑(厚生会館横)
河井継之助号・蒼龍窟
1853年6月、ぺリーが四隻の軍艦を率いて来航し、日本の開国を求めた当時、長岡藩主牧野忠雅は幕府の老中であった。
重い責任をにないながら幕府政治の改革やアメリカとの交渉準備に日夜心をくだいていた。
この時あらわれたのが河井継之助である。
国の内外の動きをとらえ、長岡藩政の長所、短所を大胆に述べた彼の「建言書」(けんげんしょ)が藩主忠雅の目を引き異例の抜てきを受け、その後郡奉行、年寄役、家老本職そして家老上席と昇進し藩政を大改革した。
そして1868年4月軍事総督として戊辰戦争の指揮をとる事になった。
戊辰戦争
1868年1月3日、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗れ徳川慶喜らは6日、大坂を離れた。
翌日7日、長岡藩主牧野忠訓も江戸へ向かった。
その後河井継之助は藩主忠訓らに長岡へ帰ることをすすめた。
継之助は江戸藩邸を整理し船で横浜から新潟へ向かい、3月28日長岡へ帰ってきた。
その頃長岡は藩内の佐幕派と恭順派の対立が一層激しくなり騒然たる状況であった。継之助は藩論を統一し、武装中立、新政府軍と同盟軍の和睦を考えながら、小千谷・慈眼寺(じげんじ)の会談に臨んだが嘆願書も却下され、5月4日、奥羽列藩同盟に参加した。
赤印・長岡軍
長岡城攻防絵図の一部
長岡城攻防戦
1868年5月10日、榎峠付近で戦いの火ぶたが切られた。
13日は朝日山の戦いと激戦が続いた。
新政府軍は朝日山を奪回する作戦を立てたが、同盟軍の守りが堅く攻め落とす事が出来なかった。
新政府軍は作戦をかえ、信濃川渡河を強行して直接長岡城を攻撃する事にした。
5月19日本隊が城南にいて手薄な長岡軍は必死に防戦したが支えきれず総退却となった。
城内の藩主とその家族は城を出て東方の森立峠を越え栃尾へ避難し更に八十里越から会津へ落ち延びた。
河井総督は同盟軍と協議し加茂に本営をおき、長岡城奪回のチャンスをねらっていた。
7月24日、長岡藩兵は八丁沖を潜行して、長岡城を目指して猛反撃に移った。
同盟軍ものろしを合図に長岡へ向かって一斉に進撃をはじめた。
不意をつかれて新政府軍はつぎつぎと信濃川を越えて敗走した。
河井らの奇襲作戦は功を奏し念願の城を回復したのである。
しかし河井自身も新町口の激戦で銃撃され致命傷を受けた。
7月29日、新政府軍の猛反撃を受けて長岡城は再び陥落した。
負傷した河井継之助も8月4日の朝、八十里越に向かった。
5日は会津領只見村に入り会津塩沢の医師矢沢宗益宅へ世話になり、傷がもとで8月16日没した。
享年42歳。
墓は長岡・栄涼寺と只見町塩沢にあります。
長岡市役所発行「ふるさと長岡のあゆみ」より抜粋
河井継之助記念館
長岡市制100周年を記念して、河井継之助邸跡に隣接した建物を記念館として直し、設立されました。
〒940-0053 長岡市長町1丁目甲1675-1
TEL:0258-30-1525FAX:0258-30-1526
開館時間 10:00~17:00(16:30まで入館可能)
- 「峠」
- 河井継之助を主人公にした歴史小説 / 司馬遼太郎 著/新潮文庫
- 長岡市郷土資料館
- 長岡市御山町
TEL:0258-35-0185
長岡駅よりバス15分、バス停より徒歩18分
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜及び祝日の翌日、年末年始
- 福島県 河井継之助記念館
- 終焉の地・会津塩沢にあります。
福島県南会津郡只見町塩沢 国道252号線沿い
TEL:0241-82-2870
開館:4月中旬~11月まで(休館日なし)
開館時間:9:00~17:00
継之助が息を引きとった部屋が当時のまま移転、保存されている。
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