長岡城は元和4年(1618年)に堀直竒により築城された。
堀直竒は長岡城の完成を見た上で、十万石の村上城主として長岡を去って行った。
その後掘氏の後を受け徳川譜代大名の牧野氏が約250年間支配した。
牧野氏の領地は七万四千石であった。
まちなか散策
もっと知りたいすずらん通り商店街。すずらん通り商店街の歴史は長岡の歴史。
長岡城跡の碑(厚生会館横)
長岡城は元和4年(1618年)に堀直竒により築城された。
堀直竒は長岡城の完成を見た上で、十万石の村上城主として長岡を去って行った。
その後掘氏の後を受け徳川譜代大名の牧野氏が約250年間支配した。
牧野氏の領地は七万四千石であった。
現在の位置
牧野氏は三河国牛久保(愛知県豊川市)の城主七千石から上州大胡(群馬県)ニ万石の城主になり、大坂冬の陣、夏の陣に出陣して功績をあげ、越後国長峰五万石の領主になった後、長岡城主になった。
家臣とその家族は大胡から長岡に移住してきた。
長岡城は栖吉川と信濃川が周囲を取り囲んで自然の外郭を形づくり、さらに城の東側を流れる柿川から水を引いて堀を幾重にもめぐらしていた。
天守閣はなかったが、三階隅櫓がその役割をしていた。
本丸(長岡駅)と二の丸(厚生会館)、詰の丸があり、三の丸には侍屋敷があった。
城門は17門あり、本丸に通ずる大手門、表町に通じた町口門、三国街道に接した千手口門、新潟に通じた神田口門などがあった。
また、長岡城は「兜城」とも「八文字構えの浮島の城」ともいわれた。
三階隅櫓
武士の生活
戦国の三河で培われた牧野氏の気風はそのまま長岡藩風となった。
「常在戦場」の気風が長岡藩に「質朴剛健」の武士の生活を行わせる事になった。
ことに長岡藩士では「常在戦場」の四文字を武士の心意気として敬愛した。
長岡市役所発行「ふるさと長岡のあゆみ」より抜粋