小林虎三郎は戊辰戦争後の長岡の文武総督になり、戦火をまぬがれた四郎丸の昌福寺の本堂を借りて、明治2年5月1日に国漢学校を開校した。
以前の藩校崇徳館が、漢学のみを教えたのに対してここでは国学をも教授したので、名称も国漢学校と名付けられた。
三島億二郎らとともに大参事の任にあった小林虎三郎は、教育第一主義を唱え信念を持ってその主張を貫きとおした。
昌福寺は前年の戊辰戦争下で野戦病院にあてられ傷みもひどかったので、明治2年の秋から新校舎の建築にとりかかった。
(現在の大和デパート長岡店)